アラカンですが何か?

①死が現実となった今、感じること

60代になり、死が以前より現実的に感じられるようになりました。若い頃には考えもしなかった「死」という概念が、少しずつ日常の一部となりつつあります。それでも、私は死ぬこと自体にはそれほど恐怖を感じていません。死は避けられない自然の一部であり、そのことを受け入れることができるようになったからです。

しかし、痛みや苦しみを伴う死の過程には恐怖を感じます。身体的な痛みや、病院での長期的な苦しみを想像するだけで、不安が募ります。また、これまでの人生で大きな成果を上げたわけではなく、そのために忘れられることへの恐怖も感じています。そういった複雑な感情を抱きつつも、死そのものへの恐怖は薄れているのです。

② 人生の振り返りと達成感の欠如

振り返れば、私の人生は大きな出来事や成し遂げたことに乏しいかもしれません。大学を卒業し、結婚生活を送ってきましたが、子どもはいません。キャリアも特筆すべき成功を収めたわけではなく、平凡な日常が続いてきました。そのため、「何一つ成し遂げていない」という自己評価に繋がっているのかもしれません。

しかし、このような自己評価が正しいのか、疑問に思うこともあります。人の価値や人生の意味は、大きな成果や目に見える成功だけで測れるものではないと信じています。小さな日常の中にも、価値や意味が宿っているはずです。友人との何気ない会話や、家族との平穏な時間、そして自分自身が感じた喜びや悲しみも含めて、すべてが私の人生の一部です。

③ 死への恐怖とその受け入れ

死が近づいているという現実を受け入れることは、容易なことではありません。特に、死に伴う痛みや苦しみは避けたいものです。身体的な痛みや長期間の病気は、誰しもが恐れるものです。私もその例外ではなく、痛みを感じることへの恐怖は強く抱いています。

しかし、死そのものに対しては恐怖を感じないというのは、ある種の悟りに近いものかもしれません。死は避けられないものであり、誰にでも訪れるものです。その事実を受け入れることで、死に対する恐怖が和らぐのかもしれません。

④忘れられることへの恐怖

もう一つの大きな恐怖は、忘れられることです。人は誰でも、自分の存在が他者の記憶に残りたいと願うものです。私も例外ではありません。子どもがいないため、自分を直接的に記憶してくれる存在が少ないという現実があります。

しかし、忘れられることへの恐怖もまた、時間と共に和らいできました。私の人生は私自身にとって意味があり、他者にとっての記憶や評価に囚われる必要はないと感じています。私の存在が誰かの記憶に残らなくても、私が感じた喜びや悲しみ、経験した出来事は、すべて私の中で生き続けます。

⑤ 日常の中の幸せ

何一つ大きなことを成し遂げていないと感じることはありますが、日常の中には小さな幸せがたくさんありました。友人との笑い合う時間、夫との穏やかな日々、趣味に没頭する時間など、これらは全て私の人生の大切な一部です。

特に、夫との関係は私にとって大きな支えとなっています。子どもがいなくても、二人で築いてきた家庭は私たちにとって特別なものです。夫と共に過ごす時間が、私にとっての幸せの源であり、そのことに感謝しています。

⑥ 自己成長と学びの旅

人生は成長と学びの連続です。60代になっても、私は新しいことを学び続けています。趣味を通じて新しいスキルを身につけたり、興味のある分野について深く学んだりすることは、私にとっての充実感をもたらします。

また、自己成長を通じて他者との関係も深まります。友人との交流や、仕事を通じて新しい人々と出会うことで、自分自身の視野が広がり、人生に対する新たな見方を得ることができます。

⑦ 最後に

死が現実的になった今、痛みや忘れられることへの恐怖はありますが、死そのものに対する恐怖は少なくなりました。私の人生は大きな成功や成果に満ちているわけではありませんが、それでも充実したものでした。小さな幸せや日常の中の喜びが、私にとっての大切な財産です。

死を恐れるのではなく、日々の生活を大切にし、現在の瞬間を楽しむことが重要だと感じています。私たち一人一人の人生には、それぞれの意味と価値があります。それを見つけ、楽しむことができれば、死を迎える時も恐れることなく、穏やかに受け入れることができるでしょう。

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